新卒移住アバンチュール

これは、ぼくの日々の冒険のはなし

雑草と苗と一言

こんにちは。しまでんです。

6月の半ばに差し掛かり、日本列島は
ほぼ梅雨入り。
じめじめした天気が続いていて、なんだか気分も
上がらない方も多いのではないでしょうか。

しかーし、農家はそんなことを言ってる
暇などないのです!
田植えが一段落したところで、
やることはいくらでもあるのだ、、、。

<目次>

日に日に大きくなるやつら

苗が大きく育つようにと播いた肥料。
その養分をここぞとばかりに吸収し、
成長するやつらがいます。

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そう、雑草!
少し放っておくと、ご覧のあり様。

なんという成長力。


しかもこいつら、妙にたくましいのです。
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この根のはり具合。力をこめないと
根から引っこ抜くことはできません。


さらに、田んぼの中だけではなく、
雑草はそこら中に生えています。
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この花はハルジオン。
小さく咲いているだけならきれいだな
と感じるのですが、ここまで大きくなられると、、

田んぼ作業に支障が出てくるので、刈ります。

刈り払い機という機械を使って、
一気になぎ倒していきます。
根元の方から刈る、刈る、刈る。

しかし一度刈っても、一ヶ月ほどするとまた伸びてくるそうで。

田んぼのシーズン中に、
3回くらいは刈るみたいです。大変だ。


といっても、雑草だなんだと敵視しているのは、
僕たち人間が勝手に決めたこと。

僕が雑草だとすれば、ただ生えているだけで
こんなにも忌み嫌われるなんて、
たまったもんじゃありません。

雑草と共存できる道を探っていくことも
大切ですね。
例えば、草が生えやすい、草が好む環境を
別に用意するとか。

片方からの意見しかないなんて、フェアじゃない。
草と対話できる機械の開発が待たれます。

もし、雑草と話せるようになったら、、、
はい、妄想はこの辺で笑

田んぼの様子

僕がなんとか5月中に滑り込み田植えをかました
田んぼですが、あれから約2週間。

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どうでしょう。
植えた直後より、苗の本数が増えている
ではありませんか。

これは苗が分けつしている証拠。
田植えが終わって少しすると、
苗は自分の力で増えていくのです。
これを分けつといいます。

しばらくは、苗のこの自力で増える力を
最大限に発揮してもらいます。
苗のことは苗にお任せ。

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雑草だけではなく、苗も順調に
育っているようです。
良かった、良かった。

「生きている」

なんといっても僕は田んぼ初心者。
知識も経験も圧倒的に不足していて、
いつも不安げに田んぼを見ています。

大丈夫だろうか。枯れてはいないだろうか。


そんな不安症の僕が任されている田んぼ、
の隣で暮らす方に、我慢できなくて聞きました。
「この田んぼどうですかね?」と。


そしたら、こんな返事をもらいました。
「良いんじゃないの? 田んぼが生きているよ。」


素直に嬉しかったです。
お世辞だったとしても、
褒められただけでおーけー。


そこにこの言葉。「田んぼが生きている」


言葉としては、苗が育っているとか、
ちゃんと成長しているという意味でしょう。
特別に意識して言ったわけではないと思います。

それでも、僕は直感的にこの言葉を
”本来の言葉の意味を越えたもの”として捉えました。

「生きる」という動詞は、生き物に使う動詞。
そう思っていたのですが、田んぼに使うと
不思議なことにしっくりきます。

そのわけは田んぼ自体が、土と水と苗と草とで
構成された一つの生き物である、
と考えることができるからではないでしょうか。


これは間違いない。



さらにもう一つ思ったことが。
「田んぼが生きている」という言葉から、僕は
生き物以外にも「生きる」という動詞を当てはめる
ことができる、という動詞の可能性を感じ取ったような気がします。

こういった表現は探せばいくらでもあるものですが、いざその場面に居合わせたのは自分史上初めてのこと。

この言葉に心が反応したように感じました。
きっと気のせいではないと思います。


「田んぼが生きている」
あの場を表す表現としては、まさしくドンピシャ。

いつかは自分の口からも、
このような表現を発してみたいです。


はい、ということで田んぼのお話でした。
無事に育ってくれるのを祈るばかりです。

それではまた。ばいばーい。

ゆとり世代。

1990年代に生まれた子供たちは、ある種の”敬意”をもってそう呼ばれて育った。

そんな”幸運なやつら”の中でも、小学校、中学校、高校の12年間、

ずっとゆとり教育を受けてきたゆとりのエリートがいる。

95年に生まれたこどもたち。

スーパーラッキーベイビーズ。

 

ここに男が一人。

東京の高校、大学を卒業し、やってきたのは新潟県の魚沼市にある福山新田地区。

生活するには車が必須、冬になると何mも雪が積もるという。

コンクリートジャングル育ちの次なる舞台は、大自然。

「土」の人と交流し、「風」としての役割を果たして、風土を生み出せ。

もちろん、95年生まれ。オーマイゴット。